入久物語

入久は明治43年三浦喜兵衛によって創業され、以来数の子たらこ等の魚卵の製造を一途に手がけ、気がつけば百余年経ちました。現在は私で4代目となりました。100年余りの物語をまとめてみました。

明治26年1月22日

初代三浦喜兵衛(当時22歳)が秋田県由利郡平澤村(現在のにかほ市)より北海道に渡ってくる。オヒョウ((大鮃)を原料とした「そぼろ」製造の目的で北見を訪れ、その地で水産加工業を営む。

明治32年6月15日

小樽祝津の地で共同事業にてホタテの煮干の製造を企て製造所を4箇所運営する。

明治39年10月28日

鱈の漁獲地の北進に伴い、その仕入れの為に共同組織の祝津信用購買購買組合の鮮魚部を開設し、「ニホンイチ」ブランドで道内各地に販売を行う。

明治42年10月28日

祝津信用購買購買組合の鮮魚部を開設に伴い、入久三浦もそのその附属鮮魚仲買人となって道内及び本州の委託販売の事業を行い独立する。

昭和4年3月27日

鰈漁場の荒廃に伴い、各種魚も減少し、魚市場も不振をいたり鮮魚部を解散して鮮魚商から塩数の子(鯑)の製造を主体とした加工を行う。ニシン及びスケトウダラ(鯳)の加工(身欠きニシン・たらこ)を副業として行う。

昭和9年8月21日

日満興産博覧会で入久の塩数の子が銀牌を受賞する。

昭和11年1月

2代目三浦淳次郎の経営になる。塩鯑の製造と外見の身欠きニシン及び明太魚(スケトウダラ)の製造も行う。

昭和16年5月

小女子(コウナゴ)の佃煮の本格的製造に取り組む

昭和25年11月

佃煮の製造を止めて、中断していた紅葉子(たらこ)や明太魚の製造を再開する。

昭和30年代

地元同業者があつまり「灯台印」ブランドを結成して、紅葉子を東京・大阪中央市場をメインに出荷し好評を得る。

昭和45年11月

スケトウダラの塩漬けしない生卵(生子)を関西方面に空輸を始める。小樽からの出荷量が全道1となる。
この後、東京視察で塩蔵のたらこ(紅葉子)が「タラコ」と呼ばれていることを知り、紅葉子を「たらこ」という商品名に変えて出荷する。それが定着して今日に至る。

昭和50年12月

全国からのスーパーマーケットバイヤーの見学が頻繁になり交流が始まり、弊社の「釣りたらこ」をはじめその他の製品も高い評価を受ける。

昭和55年9月

入久三浦水産加工所を有限会社入久三浦水産と変えて法人組織にする。

昭和61年1月

3代目三浦喜一が社長襲名する。

平成元年2月26日

原因不明の出火で工場が全焼する。

平成元年8月31日

新工場の落成。

平成11年3月

四代目三浦一浩が社長を襲名する。
初代から方針である”お客さまの信用を第一として、本場の味、本物の味を提供する”をモットーに現在に至る。